4th room

'05/08/29開設。本名による文系ブログと使い分けて、こっちは時事・政治問題を中心に。
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石原真理子なんて実はぜんぜん関心がないのだが、彼女がなんと監督を務めた映画「ふぞろいな秘密」がまもなく封切りで、その完成試写会でプロデューサーが「2度と仕事はしたくない」といったという話が、asahi.comの一隅(日刊スポーツ提供)に出ていて、はじめ腹を抱えて笑って、そのあとシラけた。
石原はなんと舞台あいさつ(!)で、プロデューサーと「編集段階でもめ、最後は数百万円をかけ、自費で編集を行った」というエピソードを明かし、それに対して陰でプロデューサー氏が上のように述べたというのだが、だが考えてみればそういう女に監督を務めさせることも含めて、自身の裁量なのではないのかね、プロデューサー氏よ。それこそいま別の文脈で問題になっている任命権者の責任というべきだが、さらに読めば「彼女には編集日数を、通常の何倍という十数日与えた。でも1週間もオーバーしたから、プロの編集スタッフで12時間で仕上げただけ」と氏の発言が、引かれている。素人に編集時間をその程度与えて威張って、最後は半日仕事って、どういう感覚なんだ。
プロデューサーとしての不明をさらけ出してでも宣伝効果を求めよう、というのも戦略なら(軽蔑はするが)一定の効果は上げたであろうと認めておくが、くりかえすがしかし、石原にじしんの暴露本の監督をやらせたら――実際は誰かが動かしていたってそんなクレジットがスクリーンに出た瞬間に――、ダメだろう、なんぼなんでも。
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2007.05.31.Thu 10:42 | 芸能 | trackback(0) | comment(0)
こんなこと書く論者も載せるメディアもないだろうから先に書いてしまうのだが――ただしアノ評論家だけは数日内に世の論調に抗って某紙に類似した視点の寄稿する可能性がある――、今も昔も、自死が政治家にふさわしい死に方であることには、変わりがないの。
例の松岡なる男がとった行動にまつわって、任命権者である安倍首相を責める声が大きいようだが、ドジ踏んじゃったね(参院選だけを考えたらたしかにマイナスだったね)、という言い方がせいぜい妥当なのであって、庶民感覚がその都度、新聞屋たちによって無責任に数値化されるものであるかのような内閣支持率を気にするがゆえの大臣の頸のすげ替えなら、私がその任命権者でもそれをは拒み、あの男を農水相に置き続けた。
他方、政治家もまた清濁あわせ飲みながら泳いできた川の途中で、もうどうしようもない吸水口に飲み込まれそうになったらそのとき、実際は男は流されるしかない魚ではないのだからそこで命を絶つことは、当然あるだろうと思う。いや、この書き方だといかにも汚職ばかりを含意してしまいそうだから、切羽詰った国家間交渉で度し難い失敗を犯して国民を危険・不利に導くとかした日にはそれこそ昔ふうにいえば切腹以外のいかなる行き方があろう、と言い換えてもよい。
私は、松岡なる政治家はじっさいに悪人だったんだろうと思う。政策面での力量を評価する声も死んだ直後から突如(少なくとも一般国民には)聞かれはじめたように思われるが、それにしたって国家間交渉もしくは超国家的組織の調停によって日本国の農業に不利な状況が招来されても農協を黙らせることができるのはこの男ぐらいだ、という言い方は、まるでヤクザの次元の話、と私には聞こえる。
だが、カメラを向けられたら自動化した政治化批判を簡単におこなってしまう庶民の声には抗い続け、おそらくは事務所費(例の光熱費代)の件だけなら煙に巻いてしまえるところで、もっと大きな本丸(でもないかもしれない)に及ぶ捜査の情報も入ってきて、そこで生き恥をさらすのなら死を選んだほうがマシだと思い、そして実行した、その一点だけで、彼は政治家であったのだと私は思う。
そう、私などは、どんな恥も死よりはマシだと思ってしまうタイプなので、死にまつわってあれこれ想念をめぐらせる人文学の徒であるわけだが、政策系学部を卒業したばかりのような身空の若者が数年後の市議会議員選挙を目当てにか街頭でタスキをかけてビラ配りなどしている姿を街で見かけると、退路を絶たれたとき自死する決意はあるか、と耳元でそっと訊いてみたくなるのである。
2007.05.29.Tue 09:07 | 政治 | trackback(0) | comment(1)
「負け犬」だか「負け組」だか、そんなもののレベルを競うような露悪的番組があって、その「登場人物」のひとりであった青田典子が実は結婚していたとかで、メディアがちょっと騒いでいる。
目も口も少しずつ出かすぎる上原さくらといい、ほんの少し両目の間隔が広いこの青田といい、私は少しいびつぐらいが鑑賞に堪えると思っている人間なので、CCガールズ時代もなかで彼女がいちばん好みだったのだが、あれくらい豊満な肉体を所有して、バブル(いろんな意味での)がはじけたあとだって男のひとりやふたり、ずっとい続けただろう。なのに、政治家の公約のようにタレントがいうことを鵜呑みにしているヤツがいたら、そいつがおかしい。
というよりも、この件にまつわって責められるべきものがあるならば、タレントの素性を検証することなく「負け犬」でもなんでもない人間をその種の番組に使っていたテレビ局(制作会社に帰するのではなくコイツであると明記しておく)であって、要は「あるある」事件と同根なのである。
あるいは、上は詭弁を弄しただけで、きょうは冒頭からすでに噴出しているとおり、登場人物の検証がどうのこうのという以前に、番組がくだらないのであり(私は天に唾するようにしながらビールをやりながら何度か見たことがある)、そうした手合いによる「あるある」自己批判(関テレに限ったことではなくテレビ業界全体の)なのであれば、そんなの犬にくれたほうがマシであると、あるとすれば批判はそのようなメディア批判とならなければならないのである。
青田典子にまつわって正義の岸辺に立っていると思っている者は、ひとしく馬鹿である。
2007.05.27.Sun 10:10 | 芸能 | trackback(0) | comment(0)
上原さくら
上原さくら、と当ページは他の芸能人同様に敬称を略して書くが、新聞各紙のサイトがその赤切符(交通切符)の件に触れる記事は軒並み重大犯罪者扱いだったな。でも、誕生日が3月31日で、免許更新期間が4月30日までのところを2週間ちょいオーバーしたところで23キロ速度オーバー、というんでしょ。どっちも悪いといえば悪いが、更新をそれくらい忘れる輩はごまんといるし、法定速度が60キロというから都会じゃ出せるほうの道で、10キロ未満のオーバーじゃ普通は捕まることはないのだから実質10数キロという感じで、ちょっと超えたわけだ。それを、他の重大記事と並べ、そればかりかasahi.com内の日刊スポーツのコーナーなんかは(ということは朝日新聞も同罪なのだが)2日近くも一面にさらし続けた。最近あんまり陽が当たっていなかったから考え方によってはプラスもあるんじゃない?式の見方は、ぜったいに間違いである。顔の造作としてはけっこうああいう派手めが好みで、ああいつの間にか30歳になってたんだ、という感慨を少し抱いたからこそ、お前らの社員がなんかやったら同じようにさらし者にしろよと、ふざけたメディアのことは罵っておく。

中居正広
フランキー堺主演の名作テレビドラマ「私は貝になりたい」が、中居くん(とここでは敬称つきだ)主演で映画化されるのだという。読んですぐ、いやだな、という気持ちが起こった。だってまたあの「砂の器」(近年TBS系で放送されたドラマ版)みたいな演技でお子ちゃまなファンを喜ばせるのか、と思ったからだが(私は映画の名作がどう間延びさせられるかに下世話な関心があったのとマゾ的快感で主役の演技を追っていた)、よく読むと、監督がそのドラマ版「砂の器」を手がけたテレビ人で、その映画デビューとのこと。ありゃー、だね。asahi.comの記事によると「福沢氏[=監督]は、58年当時の脚本を担当した橋本忍氏(89)と交渉を重ね、理髪店主夫婦の出会いや、夫人が米軍に助命嘆願書を出す場面などを厚く書き直してもらった」とあるが、ここにも3つ間違いがあって、すなわち、(1)書き込めばいいというものではない、(2)89歳の老人に頼むな、(3)89歳の老人が引き受けるな、ということになる。冗談のように聞こえるかもしれないが、じっさい、長いドラマ版から短い映画版へと更新されるから削らねばならないところこそ多いのに、内容的にも不要な追加と直観されるのである。

中村勘三郎
こぶ平(名前変わったんだっけ?)の件もそうだけど、この手のひとたちは叩けば埃が出ることは、わかっていた。でも、それぞれの業界でダントツの収入(ご祝儀にかぎっての話)で、悪質だから国税庁が入ったの。だから、こぶ平(三平を継いだのか?)みたいにもごもご口ごもりながら謝っておけばいいのに、「申告漏れの額は当局との見解の相違により約800万円。所得隠しはない」(asahi.com;以下同)と報道を否定したうえで、さらには所属事務所と後援会の連名で「内容は事実と異なり、勘三郎らの名誉を著しく棄損するもの」と反論したそうな。だったら報道各社にたいして正々堂々と法的措置をとって、断固名誉を回復してもらいたいものだが、「妻好江さん、長男勘太郎(25)、二男七之助(24)、後援会「若鶴会」代表も税務調査を受け」ということだから、それどころではない炎上ぶりと見た。さあ、メディアよ、君らは上原さくらにあの仕打ちなのだから、ここは五千倍くらい熱を入れて徹底的に叩くべきだろう。がんばれ。
2007.05.24.Thu 09:24 | 芸能 | trackback(1) | comment(0)
3月に亡くなった鈴木ヒロミツ氏が、ガン告知を受けてから死の数日前までつづった日記が、刊行されるのだという。死の恐怖が、書くことをつうじて緩和された、というのはありえる話で、そういう意味では今後、そういう死につつあるひと(余命日数を告知されたひと)だけが証明書付きで初めて入会を許可されるソーシャル・ネットワークもありうるだろう、と皮肉でも何でもなく(というのも私こそそうした人種でありえるからだ)書いておく。が、それと、旬を過ぎた芸能人のまで、そうしていちいち刊行する出版の世界のことは、別問題である。そういうので儲けたいか。あの名著『死の瞬間』ではないが、書けなくなる瞬間(正確には閾〔いき〕ですね)については少々興味があるからペラペラ頁を繰ってはみようかと思うけれど、まさか買うような代物ではない。そんな暇(というよりもお金かな?)があるのだったら、あなたより早く死ぬ親や、自分自身の、死に向かう日々のことをいまから思うべきである。
と、上のような感傷的なニュースと相前後して、筑紫哲也氏(このブログで何度も悪口を書いているから敬称は略したいが上段で他の人間に使っているので今日はこれで)がニュース23で、肺ガン初期の告知を受けたことを告白したらしいことを、知った。そのあと、TBSの公式サイトでそれが明かされた多事争論のコーナーの2分弱の映像も見た。が、「ガンにうち克つ」(だっけ?)といったコーナーでこの病の現代的問題を扱っていた当人がガンになりましたが、私もがんばってきます(しばらく療養のために休んで元気に復帰します)と、それはもう平凡以前の告白である。
西部邁氏がかつて某著で記したとおり、闘病記(昨夜の筑紫氏はカメラに向かって話すことでその初日分を「執筆」したのである)とは、「自分の病気との闘いが世間から感心されることを期待し、そうなることによって自分の死に意味を与え」るものにすぎない。このあとに続く、「特別者だけは闘病記の公表を通じて死の不安・恐怖を小さくすることができる。大方の人々は、そういう機会に恵まれず、たとえば裏町の薄汚い病院で貧しい家族だけに見守られて、人知れず死んでいく」という部分を引くと、西部はずいぶんおセンチな議論を展開していると思われるかもしれないが、数行空けて記される「人間が死にたいして抱く不安・恐怖は、基本的に平等である。しかも、死は人生の些事ではなく、まさしく決定的な出来事である。[中略]著名人の闘病記の公表は、その死における平等性を乱すという意味で、道徳的には認め難い」の、〈道徳〉の語の適切な使用によって、ジャーナリストなんだからこの自分の闘いを告知し、その経緯をきちんと伝えなきゃ、という勘違いに向けられることがふさわしい、剣〔つるぎ〕のような言葉となる。
まあでも、筑紫と似たようなものである鳥越俊太郎も同じように闘病を誇っていたし、あの小田実なんかも先日、手術はしないで化学療法で生き延びる風の声明を出していて、こういう輩がメディアをけっきょく利用しちゃっているのだと、呆れる。筑紫哲也も、だから告白などせず、ほんとうにしんどくなってきた段階で初めて休んで、戻ってこず、そうして死んでから「実はガンだったのか」となったら、カッコよかったのに。
2007.05.15.Tue 10:05 | メディア | trackback(0) | comment(6)
けっきょくこの場所ではパロマのときと同じ言い草を繰り返すだけなのだが、遊園地は絶対に安全で「あってほしい」でなく「なければならない」なんて、本当にありうる主張だと、ひとは思っているのだろうか。私は飛行機にいやいや乗るときは、乗った以上、堕ちても文句はいえないな、と考える口である。だから当然、ジェットコースターに乗るときも。じっさい私は数年前、当時4歳の息子と後楽園ゆうえんちの「舞姫」という小型コースターに乗って、大型のそれに勝るとも劣らぬ恐怖心(横の鉄柱に頭部をぶつけるのではないかという)を感じたものだ。
が、今日ここで触れたいのは、そんなことではない。吹田市が、エキスポランド(以下、園と略記)がもしもそのコースター再開の申請を出してきても許可しない、と表明したと新聞が。そんな申請を出す話がもう園側から出てきてるのか、と思ったらそうではなくて、むしろ園側もそれは廃止するらしい(ということは吹田市の単なるパフォーマンスということになる)。園がびくびくしながら社会的な反応を待つのは、むしろ、6月だかには再開したいという園全体の営業の問題だろう。
そうだ、現実問題としては、補償をするにも経済的な基盤がいるということで、福知山線が数ヵ月後に走り出したように、園の営業再開もどこかで認めざるを得ない。だが、その現実を認める私も、あの転覆場所を通過する福知山線に毎日乗る(そして毎日ココなんだなと思う)人間に、私はなれない、と思うように、そう簡単にジェットコースターには乗りたくないし、遊園地にもそうは足を運びたくない、と思う。だが連休の、事故後の残りの時間も、世間では他のジェットコースターの大半は稼動し続けたらしいのである。つまり、事故を起こしたのと同じような絶叫マシンに乗って数分を過ごし、怖かったね、私らも当たるかと思ったよね、とか笑いながらその数分のことを振り返るのである。事故が起こった瞬間にすべてが規制されたり、自粛されるのも嫌だが、そのような制度の問題としてではなく、喪(mourning)の問題として、事故後ここ数日中にジェットコースターに乗って絶叫した人間を、私は嫌悪する。
2007.05.10.Thu 05:48 | 思弁 | trackback(0) | comment(0)



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